阪神淡路大震災鎮魂の願いを込めて黙祷いたします。
1995年1月17日 私も被災しました。
ドカーンと突き上げるような衝撃で目が覚め、とっさに「隣に隕石が落ちた」と思いました。
飛び起きて子供を見に行ったので助かりましたが、後で見ると私の寝床は大きな重いタンスの下敷きになっていました。
家族でけが人はなかったのですが、自宅は半壊、室内で立っているものはすべて倒れ、ライフラインがすべて止まりました。
抗がん剤治療で入院していた父が、病院の機能がすべて止まったらしく、徒歩で帰ってきました。
傾いた家で繰り返される余震におびえながら、居場所を確保するため、倒れた食器棚から落ちて壊れた食器の残骸をかたずけることから始めました。
ただ、この程度で「被災した」と言えないくらい周辺の状況は悲惨でした。
当時は関西で地震があるとは誰しも思っていなかったので、何が起こっているか想像もつかなかったのです。
状況が分からないので、首都で大きな地震があって日本が沈没したんじゃないか、とさえ思いました。
自家用車のラジオで状況を確認し、震源地が神戸付近であることが分かりました。
首都東京が無事なら何とかなるだろう、と少し安堵しましたが、しばらくは具体的な支援は何一つありませんでした。
当時からすれば、全く想定外の事態なので仕方がない面もあります。
反面、関西人は反骨精神が旺盛と言われますが、歴史的にこのような背景もあり、反骨精神は育成されたことと思います。
震災当日の夕方、消防車や救急車のサイレンの音が鳴り続ける中、妻、娘二人、両親がこの先どうやって生きながらえようか、顔や態度には出しませんでしたが、心底、途方に暮れていました。
日が暮れてくるとかなり心細くなりました。
最初に助けてくれたのはダイエーでした。
震災当日の夜に最寄り近くのダイエーの食料品コーナーがオープンしました。
電車さえも止まっているのに駅前でダイエーがオープンしました。
当時はSNSもなかったので、ご近所の口伝で聞きました。
暗い気持ちを抱えて覗いてみると、ミネラルウォーターがパレットに山積みされていました。
その山積みのミネラルウォーターが光り輝く光明に感じられ、精神的な支柱となりました。
「助かった」と思い、その山積みのミネラルウォーターを見上げて涙が溢れました。
その後の報道などでダイエーの創業者をはじめ多くの方々が奔走されたことを知りました。
「ダイエーさんに助けていただいた」という思いは末代まで語り継ぎたいと思います。
当時の私はまだ介護の仕事の経験もなく、医療、福祉の現場がどのようになっているか、知る由もありませんでした。
ただ、このことによって、多くの方々にお世話になった、一人では生きていけない、自分自身も誰かの役に立つ存在でありたい、と願うようになりました。
福祉の精神の根幹でもある「相互扶助」という考えが、自分の中で芽生えたきっかけでした。
災害で亡くなられた方々の無念は計り知れないものがあります。
ご冥福を祈りするとともに、残された人々、生かされている人々とともに手を携えあって生きることが、鎮魂につながってほしいと願う次第です。
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